広瀬正「エロス」

ジャズ・ミュージシャン、カーモデル製作者でもあった不遇のSF作家、広瀬正。その短い作家生活の間に彼が手掛けたの作品は長編が5、短編が29、そして評論が1。
「エロス もう一つの過去」は昭和46年に発表された第3長編である。

昭和8年、ふとしたきっかけがもとで、歌手としてのデビューを果たした大女流歌手・橘百合子。だが、もしそのきっかけがなかったとすると? もし、あのとき、別のことをしていたら……。「過去」とは全く違う展開の、ありえたはずの「もう一つの過去」の姿が浮かび上がる。彼女のなにげない選択は、思いのほか大きな影響を及ぼして・・・。

ある大物歌手の<現在>と、その時点から37年前の昭和8年、東北から18歳の少女が上京してくる<過去>。その過去に、あり得たかもしれない<もう一つの過去>。「もしもあのとき・・・していたら」、私(世界)はどうなっていただろう。いわゆる「多元宇宙もの」のSFである。しかしこの小説のウリは、そのSF的な趣向よりも、描かれる過去のディテールにある。まさに「神は細部に宿る」。


例えば・・・
「慎一は父にたのんで、アメリカのエレクトロニクス関係の雑誌やラジオの部品を送ってもらった。それらの部品を使って、彼は電気蓄音機を作った。増幅部分は、当時流行のパワー三極管245を終段管に使ったロフティン。ホワイト回路。ピックアップはオーダックスのエレクトロ・クロマチック。スピーカーはローラーの八インチ。モーターはGEのインダクション・モーター」
「最近、学生の間でウタマケーキという言葉が流行している。駄という字を分解すると馬と太になる。ウタマケーキ、すなわち駄菓子である。学生たちは「ウタマケーキこそ、本当の菓子の味わいがある」といっていきがったりする」
「電気館で嵐寛寿郎の『喧嘩一代』と高田稔の『巨人街』というのをやっているが、どちらもトーキーではない。常盤座の、三十銭の『お好み喜劇大会』も、音楽と擬音だけのはいった、サウンド版である」
という具合。


作者は執拗にディテールを積み重ね、過去の世界を再構築していく。それは作者にとって(あるいは読者にとって)のあったかもしれない過去(そして現在)を甦させることでもある。


しかしこの作品は最近流行のノスタルジー回顧だけの作品とは一味も二味も違う仕掛けが施されている。その仕掛けは読んでお確かめください。
(採点:★★★★1/2)


おまけ:第66回直木賞の候補作となった司馬遼太郎の選評「この小説の設定につかわれた人間も空間も時間も、フラスコや試験管といったふうの実験器具として組みあわされ、作者自身は白い実験衣を着た進行係にすぎず、実験の進められようが非現実的であっても、遊戯としてわりきってしまえばじつにおもしろい。」「才能(広瀬氏のは従来の文学的才能ではなさそうである)という点では、私は三作(「マイナス・ゼロ」「ツィス」「エロス」)とも頭がさがった。」